桜雪
『雪?
いや、桜だ
桜の花びらだ』
寝転がったまま、葉は舞い落ちる桜の花弁を見つめた。
西岸寺の御堂のすぐ脇にある見事な一本桜。
葉はその満開の桜の木の下に寝そべっていた。
『どうしてオイラはここにいるんだ?
ああそうだ。
学校帰りにこの桜が見たくなったんだ…』
学校からの帰り道、葉はふとこの桜がもう見頃を迎えることを思い出した。
そう思ったら無性にこいつが見たくなり、寄り道した。
少しのつもりが、どうやら花を見ているうちに、いつの間にか眠りこんでしまったらしい。
墓場の真ん中とあって、辺りには人の影すら無く、満開の桜の下はひっそりとしていて、物音一つしない。
桜の木の下から人を取り去ると、そこには冷ややかなほど静まり返った美だけが残される。
日が蔭り、あたりは薄暗くなってきている。
しかし、桜の花だけはまるで昼の日を溜め込んだかのようにうっすらと光るように佇んでいた。
『きっと暗くなってきたせいだ
桜を雪と見間違えるなんて』
仰臥したまま、葉は降り注ぐ桜の花びらを見つめた。
『いや、さっき見た夢のせいかもしれんな…』
ここ暫く見ていなかった夢。
師走大つごもり、雪舞う港町。
それ自体が夢のような、運命の女(ひと)との出会い。
『あんとき…アイツと初めて出会ったときもこんな風に雪が降ってた
花びらみてえにヒラヒラ、ヒラヒラ
通り過ぎるときチラリと盗み見たアイツの横顔は、白い頬に寒さで微かに紅が灯って−
そう、この桜の花みてえな可愛いピンク色で…』
その出会いを思い出すだけで、葉の口元は自然とほころんだ。
かなり辛辣だった彼女の言葉さえも今はただ懐かしく、愛しい思い出の一部だ。
辛いこともあったが、あの恐山での出来事は葉の宝となった。
あの時払った犠牲も苦行も、彼女と出会うための試練だったとしたら、ちっとも惜しくはなかったと思える。
それにしても、最近見なくなっていた夢をどうして今頃見たのだろう。
舞い散る桜の花びらから雪を連想したからだろうか。
それで起きぬけに桜を雪と見間違えたのか。
もう、どちらがどちらだったのか寝ぼけた頭にはややこしい。
どっちでもいい。
まだ花に抱かれて眠っていたいと、再び瞼を閉じかけた時だった。
「桜の木には魔が潜むもの」
突然、声が聞こえてきて葉はハッと身を起こした。
見るといつの間にか、桜の木の下に女が立っている。
桜の不思議な白さに包まれているせいか、女の顔はまるで陶磁器のように滑らかで、人形のように美しい。
彼女の透明な声音は荘厳な響きをもって空気を伝わる。
「アンナ…なのか?」
よく知っているはずの声の主に問いかける。
「他に誰だと思ったのかしら?」
「桜の精かと思った」
赤面せずにはいられない台詞だが、葉は至って真面目に答えた。
本当に、桜の精が人の姿を借りて地上に降りてきたのかと思ったのだ。
それくらい、目の前の女は浮世離れした静謐な美しさをまとっている。
放心したように、ぼうっとしたままの葉を見て、アンナはクスッと笑みをこぼした。
微笑むと彼女が少し人間に戻ったような気がして、葉は少し緊張をゆるめた。
ゆるりと立ち上がり、女へと歩み寄る。
制服に目が留まり、彼女もまた学校帰りなのだということに気付く。
「いま帰りか?よく分かったな、オイラがここにいるって」
「桜の精が教えてくれたのかもね」
「さっきのさ…」
言いかけたところで、突然一陣の風が吹き抜け、桜の花びらを舞い上げた。
視界が遮られる。
幻のように消えた女の残像を追って手を伸ばす。
掴んだと思ったのに、それはただの桜の花びらで…
腕に花びらを抱いたまま、葉はひしめく花弁の絨毯の上に仰向けに倒れこむ。
むせ返るような甘い香りに脳髄が痺れそうだ。
目覚めたと思ったのに、自分はまだ眠っていたのだろうか。
陶酔した意識の下、花びらを抱きしめる。
すると、花びらが腕の中で身じろぎをした。
「桜の精に押し倒されちまった」
「あんたが引き寄せてきたんじゃない」
「そうか?」
「そうよ」
葉は穏やかに微笑む。
不平を言ってみせる彼女もまた同じ表情をしているに違いない。
アンナは葉の肩に頬を寄せたまま囁いた。
「ねえ、葉」
「なんだ、アンナ」
「あんたに初めて会ったときも、この花びらみたいにヒラヒラ雪が舞ってたわね。覚えてる?」
「オイラもそれを思い出しとったんよ」
「奇遇ね」
「Tシャツ1枚で道に飛び出したオイラの前におまえが居て−」
「『通行の邪魔よ、死ね』って言ったわ」
「覚えとるんか?」
「覚えてるわよ」
満開の桜の下はどこまでも静かで、春の冷たい空気が張りつめる。
胸の上の女の温もりを体中の神経を使って感じ取る。
桜の下にはただ折り重なった男と女がいるだけだが、その自分たちの姿もフッと消えて、ただ桜だけが散り続ける光景が浮かぶ。
そこにはもはや誰もいない。
絢爛たる桜の花の下、この世の果てのような荒涼とした風景が続いていく。
ふいにわけのわからない恐怖を感じて、葉はアンナを抱く腕に力を込めた。
それに反応するようにアンナは顔を上げる。
二人、絡み合うように寝転んだまま視線を合わせた。
「あんたも桜に潜む魔に引っ掛かったみたいね」
「魔?精霊じゃなくて?」
「どっちも同じよ。
桜はこんなにもキレイで、どこか懐かしささえ感じる。
ところが、桜は時として冷たい恐怖心をも人に与える。
そんな恐怖を感じても、人はその美しさに囚われ続ける。
そういう人を惑わす魔性の魅力が桜にはあるってこと」
葉はそう言うアンナの瞳を不思議そうに覗き込む。
「そりゃおまえのことだろ」
「失礼ね」
「褒めとるんよ」
「それは光栄だわ」
笑みの形に細められた目は淡く光を溜めて潤み、なんとも妖艶だ。
その光に導かれるまま葉はアンナの頬に手を添えて引き寄せると、その桜の蕾のように可憐な唇を自分の唇でふさいだ。
なるほど、やっぱり桜には魔が潜んでいるんだな、と燦燦と降り積もる花びらを見ながら葉は目を閉じた。
【アトガキ】
桜の木の下には…いちゃつくカップルがいるだけ<オイ
嫁は魔性。